機械による狂暴化?

産業革命以降の人間社会および人間自身の変容については哲学や社会学がながらく取り上げてきたが、問題は論じつくされているだろうか。

たとえば車に乗ると文字通り「性格が変わる」ような人がいる。ふだんは温厚である本人も気づかないままスピード狂となり、同乗者に恐怖を与えるのである。あるいはスマホやゲーム禁止を言い渡された小中学生が親に暴力をふるうといった事件も散見される。

PCのリカバリ動作が遅いので「強制終了」をかけ、PCが立ち上がらなくなってしまったときの「世界から取り残されたような感覚」。あわてて情報関連部局に問い合わせる。冷静さを装いながら声は明らかにうわずっている。相手の名前を呼び違え、「初期化したら、再設定等はまたお手伝いいただけるのでしょうか」と、さまざまなデータが消える可能性からくる不安を抱えつつ、強い口調で懇願する。

リカバリ動作をやり直し、初期化は免れ、多少のソフト再インストールで解決。平静な気持ちを取り戻す。この間、わずか2時間弱。「世界の一員としての資格を取り戻したような感覚」を得る。

ことほど左様にわれわれは技術文明に浸っている。それが問題であるのは、単に人間が機械に依存しているという意味においてだけではない。むしろ、ICTが「世界とのつながり」を確保するうえで不可欠となっていることの問題の方が大きい。ICTを最低限使いこなせることは「世界の一員であること」を資格づけるような意味すら持ち、その際ICTをわれわれは道具手段として「従えている」と思い込んでいる。しかし事の真相は、ICTなしでは(かなりの部分、事実上)まともな社会生活すら営めないというところにある。

自身の意図に「従わない」機械が自分に「嫌がらせをしている」と、われわれは意識せずに受け止めてはいないだろうか。そういう面があるとすれば、それはすでに機械依存症による狂暴化の兆候である。「ブレーキが効かない」と錯覚したドライバーが、まるで懲罰でも科すかのようにアクセルペダルを目いっぱい踏みぬく…こういう心理機制が働いていないかどうかという観点からも、運転免許返納等の問題を考えていくべきではないか。

言いたいのは、「機械文明を”操作する”資格を失っても、世界・社会の一員としての資格を失わない」あり方を確保すべきではないか、ということである。

カテゴリー: Erziehung, Gesellschaft, Technik, 未分類 パーマリンク

コメントを残す