言語の「意味」

言語には「意味」がある(情報には「意味」はない)。

意味というのは、伝えられ、理解され、共有され、共感されもするなにものか、である。言葉には(時候挨拶のように)字義通りにはほとんど「無意味」だが、「言外の意味」が重層的に加わっているものがある。情報には、これがない。思うに、情報というのは感覚情報であれ、文字情報であれ、「コト」ではなくて「モノ」つまり物理的存在だということになるであろう。そこにさえも言外の意味を読み取るのが人間の言語であろう。

こういう場面を考えてみるとよいだろう。お正月の帰省の際、親が孫にお年玉を与える。そのことへの返礼としてではなく、滞在し世話になったお礼として(単なる滞在費;サービスに対する対価としてでもない)、子が親にお金を渡すとしよう。そしてかりにその金額が同額であったとしよう。そうすると、金銭的には、子が孫にお金を与えたのとまったく同じ結果になる。

しかし、当人たちはまったくそのようには考えない。たしかに金額の移動としては、親を迂回して子が孫にお年玉を渡したとしても同じことなのだが、そのようにすれば「お年玉」は「意味」を失う。結果的に同額が親から孫へ、子から親へ、それぞれ移動したにすぎないのだとしても、孫は親に感謝するし、子は親への感謝の念をお金を渡すという行為によってあらわすことに変わりはない。「お年玉」は親が孫のために善意で与えたものであり、子から親への「謝礼」とはまったく異なる「意味」を持つ。同額だから最初から迂回しなくてよいのだということには絶対ならないのである。

この場合、移動した「同額の」お金がそれぞれの「異なる」意味を持つ。この意味の相違は、同額という事実によって帳消しにされることはない。同じ金額なのに、与える主体と受け取る主体の「意味付け」がまったく異なるのだから。言語もまた、情報(媒体)としては、この場合のお金と同様に、単なる物理的存在(字面や音の響き)なのだが、そこに伝える・伝えられる当事者の重層的な意味付け(解釈)が加わる。ここに言語の意味が生じると考える。

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