計算法

小学1年で教わっているはずの繰り上がり、繰り下がりの「さくらんぼ算」、小学4年になった息子が覚えていなかった。

これはショックではあったが、よく聞いてみると、小学校入学前のタイミングでやめてしまった「Kもん」に通っていた当時から、彼は足し算も引き算も一つずつ数字を数えて答えを出していたらしい。

たとえば「5+7」であれば、「5,…6,7,8,9,10、…11,12」と数える。「13-8」であれば、「13,…12,11,10,9,8,…7,6,5」と数える。こういうやり方だ。

これはつまり、足す数、または引く数を、「5と〇」の組み合わせとし、2段階に分けて足す、または引く、というものだ。指を使って数えるのではなく、「〇,〇,〇,〇,〇」の5つの数のリズムが頭に入っているというのだ。

5の単位で考えているのが不思議に思ったが、考えてみればこれは、片手の指の数だ。最初は両手を使って数えており、その際に5で区切るため、そのリズムが自然と身についたものらしい。

だがこれは精度が低い(実際よく計算ミスを起こす)。あらためて「引き算」から「さくらんぼ算」を練習させた。これは比較的早く身についた(ようだ)。

ところが、繰り上がりの足し算。ここで躓いた。たとえば「6+9」。繰り上がり算は10を基準とするため、まず6を10にするためにいくつ足すかを考える。当然4だが、ここで彼は戸惑う。足して10にする二つの数の組み合わせが、身についていなかったのだ(だがこれも彼の自主練習により、比較的スムーズにクリア)。

問題は、10にした後の残りを足す作業だ。(これも心底驚いたが)9にするために6と何を組み合わせればよいのかがすぐには出てこない。通常これは記憶しているはずだが、彼はそうではなかったのだ。

繰り下がりの引き算の場合は、「13-8」であれば、「10-8=2」、「2+3=5」と後半が足し算となるため、まだ対応しやすい。ところが「6+9」になると、「6+4=10」、「10+…」のところであらかじめ「9-4」の作業が必要なため、すぐには対応できないわけである。

本人いわく、繰り下がりの引き算については、後半が簡単な足し算のため、いままでの5を基準にするやり方に比べても楽だという。一方、繰り上がりの足し算については、後日あらためて、ということになった。

指の5本を基準とするさくらんぼ算。まあ、これも一つの「計算法」(首尾一貫し、説明可能な方法としての)ではあったわけだ。

カテゴリー: Erziehung, 未分類 | コメントをどうぞ

それぞれの人生

それぞれが別々の人生を生きる。たとえ家族であっても。

親の都合で子供の人生の大事な部分を犠牲にすることがあってはならない。一方の配偶者の都合で他方の配偶者の人生の大事な部分を犠牲にすることがあってはならない。

人生の大事な部分、それは当人のアイデンティティであり、その中身は幼少時の思い出や友人である。

幼少時の人生の激変は避けたい。激変は、忘却を強要する。当人の時間の感覚を狂わせる。

やむを得ない理由による変化の場合にも、思い出や交友関係をできるだけ保ちたい。その方法はさまざまであろう。

人は思い出と親しい人びととのあいだでの相互承認のなかで生きている。このアイデンティティをどこまでも尊重したい。

カテゴリー: Erziehung | コメントをどうぞ

機械による狂暴化?

産業革命以降の人間社会および人間自身の変容については哲学や社会学がながらく取り上げてきたが、問題は論じつくされているだろうか。

たとえば車に乗ると文字通り「性格が変わる」ような人がいる。ふだんは温厚である本人も気づかないままスピード狂となり、同乗者に恐怖を与えるのである。あるいはスマホやゲーム禁止を言い渡された小中学生が親に暴力をふるうといった事件も散見される。

PCのリカバリ動作が遅いので「強制終了」をかけ、PCが立ち上がらなくなってしまったときの「世界から取り残されたような感覚」。あわてて情報関連部局に問い合わせる。冷静さを装いながら声は明らかにうわずっている。相手の名前を呼び違え、「初期化したら、再設定等はまたお手伝いいただけるのでしょうか」と、さまざまなデータが消える可能性からくる不安を抱えつつ、強い口調で懇願する。

リカバリ動作をやり直し、初期化は免れ、多少のソフト再インストールで解決。平静な気持ちを取り戻す。この間、わずか2時間弱。「世界の一員としての資格を取り戻したような感覚」を得る。

ことほど左様にわれわれは技術文明に浸っている。それが問題であるのは、単に人間が機械に依存しているという意味においてだけではない。むしろ、ICTが「世界とのつながり」を確保するうえで不可欠となっていることの問題の方が大きい。ICTを最低限使いこなせることは「世界の一員であること」を資格づけるような意味すら持ち、その際ICTをわれわれは道具手段として「従えている」と思い込んでいる。しかし事の真相は、ICTなしでは(かなりの部分、事実上)まともな社会生活すら営めないというところにある。

自身の意図に「従わない」機械が自分に「嫌がらせをしている」と、われわれは意識せずに受け止めてはいないだろうか。そういう面があるとすれば、それはすでに機械依存症による狂暴化の兆候である。「ブレーキが効かない」と錯覚したドライバーが、まるで懲罰でも科すかのようにアクセルペダルを目いっぱい踏みぬく…こういう心理機制が働いていないかどうかという観点からも、運転免許返納等の問題を考えていくべきではないか。

言いたいのは、「機械文明を”操作する”資格を失っても、世界・社会の一員としての資格を失わない」あり方を確保すべきではないか、ということである。

カテゴリー: Erziehung, Gesellschaft, Technik, 未分類 | コメントをどうぞ

言語の「意味」

言語には「意味」がある(情報には「意味」はない)。

意味というのは、伝えられ、理解され、共有され、共感されもするなにものか、である。言葉には(時候挨拶のように)字義通りにはほとんど「無意味」だが、「言外の意味」が重層的に加わっているものがある。情報には、これがない。思うに、情報というのは感覚情報であれ、文字情報であれ、「コト」ではなくて「モノ」つまり物理的存在だということになるであろう。そこにさえも言外の意味を読み取るのが人間の言語であろう。

こういう場面を考えてみるとよいだろう。お正月の帰省の際、親が孫にお年玉を与える。そのことへの返礼としてではなく、滞在し世話になったお礼として(単なる滞在費;サービスに対する対価としてでもない)、子が親にお金を渡すとしよう。そしてかりにその金額が同額であったとしよう。そうすると、金銭的には、子が孫にお金を与えたのとまったく同じ結果になる。

しかし、当人たちはまったくそのようには考えない。たしかに金額の移動としては、親を迂回して子が孫にお年玉を渡したとしても同じことなのだが、そのようにすれば「お年玉」は「意味」を失う。結果的に同額が親から孫へ、子から親へ、それぞれ移動したにすぎないのだとしても、孫は親に感謝するし、子は親への感謝の念をお金を渡すという行為によってあらわすことに変わりはない。「お年玉」は親が孫のために善意で与えたものであり、子から親への「謝礼」とはまったく異なる「意味」を持つ。同額だから最初から迂回しなくてよいのだということには絶対ならないのである。

この場合、移動した「同額の」お金がそれぞれの「異なる」意味を持つ。この意味の相違は、同額という事実によって帳消しにされることはない。同じ金額なのに、与える主体と受け取る主体の「意味付け」がまったく異なるのだから。言語もまた、情報(媒体)としては、この場合のお金と同様に、単なる物理的存在(字面や音の響き)なのだが、そこに伝える・伝えられる当事者の重層的な意味付け(解釈)が加わる。ここに言語の意味が生じると考える。

カテゴリー: Sprache | コメントをどうぞ

寝言

息子がときどき、はっきり聞き取れる寝言を言う。

だいたい朝になると何を言っていたのか忘れてしまうのだが、昨晩の寝言は記憶に残った。

「父さん、この番号が当たった」

何の「番号」だろうか。

ずいぶん以前、あるイベントで消防はしご車の試乗体験で抽選になった時、番号票が配布された(そのときは見事に抽選に選ばれた)のを思い出したが、おそらくそういうものではないだろう。「番号が当たった」というのだから、何かゲームのようなものか。古いおもちゃを引っ張り出してきて、クイズの早押しゲームだったのだが、そこに番号が書いてあったから、それで遊んでいる夢でも見たのだろうか。

夢のなかで、現実で満たされない願望を満たしているのだろうか。

一緒に過ごす(遊ぶ・話を聞く)時間をつくろう。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

2番手の1番

―というものになった。

第一次選考で担当者十数名分のグループが定員充足となり、定員には達していないグループだけが第二次選考の対象となり、そのなかで、「志願者数/定員未充足数」が圧倒的なトップとなったのである。

この話を聞いた妻が、2年ほど前だったかの息子のキックバイク(幼児向けのペダルなし小型2輪車)レースのことを思い出したと言った。

たしかにそうだ。そもそも息子のキックバイクは高価なメーカー品ではなく、タイヤがプラスチックでできている、ネット購入の「安物」(模造品?)だったのだ。

その時点で「2番手」であるし、しかも息子があのときレースに登場したのは、「敗者復活戦」だった(これは「2番手」どころではない)。

敗者復活戦であっても、キックバイク・レースの参加者は本格的だ。競技の専門教室もあるのだろう(それすら知らずに参加したのです 笑)。ユニフォーム、そして何より、乗る時の「姿勢」がすさまじい。上体を思いっきり前傾姿勢にして、闘争心むき出しの形相で、地面を両足で思いっきり後方に蹴って突進していく。

一方、わが息子は、まったく普通の姿勢で、上体を起こしたまま、悠々と、表情もおだやかに、コースを進んでいくのだ。模造品のキックバイクに、直立姿勢。明らかに「浮いていた」。

コースにはコスモス畑がある。彼らは小さいうえに、キックバイクに乗っているのでコスモス畑に入ると見えなくなる。スタート時は、3人中3位だった。

ところが、しばらくたってコスモス畑から最初に現れたのはわが息子。

信じがたい光景に思わず声も上げたが、いったい何が起こったのか。息子は相変わらず、直立姿勢でおだやかな表情のまま、悠々と地面を蹴りながら現れた。

結果は「1位」。まあ、今回の私の成果には比べるべくもないが(?)、立派な成績ではある。地元の偉い市議会議長さん(当時)にも立派なトロフィーをいただいた。

「2番手の1番」。とても魅力的な響きだ。

―ちなみに、残りの2人のお子さんは、しばらく遅れて(一人=女の子は泣きべそをかきながら)コスモス畑から現れた。どうも二人は、コスモス畑の中で「1位」を競って激しく衝突し、転んでしまったようなのだ(息子はその間に追い抜いたらしい)。気の毒なことではあった。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

宗教とは?

知れば知るほど、「生きる意味」が分からなくなることがある。たとえそれが知識や思想そのものの意味を問う、哲学的な知であったとしてもだ。

客観的であるとか普遍妥当であるといった特徴をもつ(あるいはそうであることを要求する)知は、自分自身が「なぜ生きるのか」という問いに答えてくれない。それは道徳法則を打ち立てる「実践哲学」であっても同じことだ。

ここに、「生きる意味」を根源から問う姿勢があるとする。それはもはや、学としての「哲学」ではないであろう。哲学はしばしば、「生きる意味」を考える際に妨げとすらなる。

道徳の延長に宗教をとらえるのは誤りだ。「生きる意味」は道徳の問題に還元されない。だからといって既存の宗教にすがることをもって、「生きる意味」が満たされるというものでもないだろう。たしかに、哲学史にくらべるなら、世界宗教の歴史と教義のほうが「生きる意味」へのヒントを与えてくれるということはあるかもしれないが、それだけのことだ。

哲学史から宗教史へ。この、時代に逆行する知的訓練だけでも不十分だ。(他者の、自己の、そして魂の)救済という、「実践哲学」も扱いきれない課題を引き受け、継続してこれに取り組むところでこそ、「生きる意味」は垣間見えてくるはずだ。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

こだわり

学校で、計算カードを忘れた息子が、担任の先生に

「計算カードをもってくるのをわすれたんですけど、どうすればいいですか?」

と尋ねてきたらしい。

先生は

「いいよ、気になるなら学校のを貸そうか」

とおっしゃったそうだが、それは断ったとのこと。

ところがその後、まったく同じことを言いに来たという。

けっきょく、都合3回、

「計算カードをわすれたんですけど」

と言ってきたとのこと。

 

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

小児のアイコンタクトは何を伝えているか?

家電店のマッサージ器が面白いようで、同い年くらいの女の子がずっと遊んでいたのだが、隣の器具でわが子も遊ぼうとしたがスイッチが入らない。様子を見ていると、女の子がやってきた。目と目が合う。背丈も大体同じ。黙って、女の子がスイッチを入れてくれた。遊び始めるわが子。元の器具の方に戻って遊びを再開する女の子。

この間、無言。

いまほど言葉が操れないころだったが、以前にも、よその子とわが子とのあいだでこの不思議なアイコンタクトがあった。そこから一緒に遊び始めたこともある。とにかく、まずは黙って相手をじっと見る。お互いの存在を認め、お互いの意思を確かめているかのようだ。

子どものほうが大人よりもコミュニケーションの術を良く知っているのではないだろうか。

カテゴリー: Erziehung, 未分類 | コメントをどうぞ

日常

小学生に(コロナ禍による休校を経てようやく)なった息子を、毎日送っていくのだが、最近、

「ここからひとりで行く」

と親の同伴を拒むので、その通りにさせている。比較的安全なルートで、歩道橋もあるのだが、その歩道橋に向かって毎日、跳ねるように歩道を駆けていく(たとえは悪いが、まるで綱を外した犬のように)。

月並みだが、こうして徐々に、子は親から自立していくのだろう。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ