大学への「社会的要請」とは何か―日本学術会議「声明」の批判的考察

文部科学大臣の6月8日の通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」は、「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」との文言を含む。これを受けて日本学術会議は7月23日、「これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系のあり方-に関する議論に寄せて」と題する声明文を発表した。

クリックしてkohyo-23-kanji-1.pdfにアクセス

この声明文のなかには次のような文章がある。

2.大学は社会の中にあって、社会によって支えられるものであり、広い意味での「社会的要請」に応えることが求められている。このことを大学は強く認識すべきである。しかし、「社会的要請」とは何であり、それにいかに応えるべきかについては、人文・社会科学と自然科学とを問わず、一義的な答えを性急に求めることは適切ではない。具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たすこともまた、大学に求められている社会的要請である。前者のような要請に応えることにのみ偏し、後者を見落とすならば、大学は社会の知的な豊かさを支え、経済・社会・文化的活動を含め、より広く社会を担う豊富な人材を送り出すという基本的な役割を失うことになりかねない。

「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請」にくわえて「目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たすこと」もまた前者とは異なる「社会的要請」にほかならないとしている。これによって、文理を問わず全学問分野が知の継承・発展という別の・長期的観点からの「社会的要請」に応えようとしているのである以上、「より健康で長生きを」「より快適で便利な生活を」「目的をより効果的・効率的に達成可能な医療技術、薬品、機械、情報機器・ソフトを」といった市民または産業界の明確なニーズに対して、客観的に評価可能な成果をもって応えることを目的・使命とする医学、工学等の分野だけではなく、今回やり玉に上がっている「人文社会科学」を初めとする諸分野を単純に「廃止」や「転換」の対象とするのは当たらない、とする論法である。

人文・社会科学については次のように指摘されている。

3.教育における人文・社会科学の役割はますます大きなものとなっている。例えば、「グローバル人材」の養成が時代の要請として語られているが、「グローバル人材」とは単に国際的な競争力をもつ人材というだけでなく、人類の多様な文化や歴史を踏まえ、宗教や民族の違いなど文化的多様性を尊重しつつ、広く世界の人びとと交わり貢献することができるような人材でなければならない。そうした人材育成において欠かすことができないのは、英語などの外国語の能力とともに、我が国及び外国の社会、文化、歴史の理解をはじめとする人文・社会科学が提供する知識とそれらに基づいた判断力、そして批判的思考力である。また、文系の学生に対しても最低限の科学・技術リテラシーが求められるのと同様に、理系の学生にとっても理系の知が働く人間的・社会的文脈についての理解が不可欠であることは、科学・技術に関わる近年の様々な出来事が示すとおりである。総じて、現代世界において次々に生起する一義的な正解の存在しない諸問題について、学際的な視点で考え、多様な見解を持つ他者との対話を通して自身の考えを深めていく力が学生たちに求められている今、教育における人文・社会科学の軽視は、大学教育全体を底の浅いものにしかねないことに注意しなければならない。

ここでのキーワードを抜き出すとすれば、「批判的思考力」「科学・技術リテラシー」「理系の知が働く人間的・社会的文脈についての理解」となろう。「批判的思考力」はさまざまに定義することが可能であろうが、さしあたりここでは、「既存の知識体系・思想体系の基盤を徹底的に吟味し、そこに誤っていると思われる部分があれば根拠とともにそれを指摘し、新たな知識体系・思想体系を部分的または全体的に提案し、なおかつ提案内容をめぐる自他の討議に真摯に応じることのできる能力」を意味すると考えておきたい。これは「理系の知」に対しては、科学・技術における目標設定(「健康」「長寿」「快適さ」「便利さ」「合目的性」「効率性」)そのものを、人間存在の自然的・歴史的・社会的条件のなかで相対化しつつ吟味することを要求する。

たとえば、古代ギリシア人は科学・技術のもたらす快適さ・便利さを、その知的水準からして十分達成可能であったが、彼らはあえてそうしなかった、それは彼らが世界の本質(真・善・美)を観照・洞察する教養知を何より重視したからだという(マックス・シェーラー)。一方、近代人は「快適さ」「便利さ」「合目的性」「効率性」を金科玉条のごとく重宝し、それ以外の価値は存在しないかのように錯覚しているのではないか。たしかに、古代ギリシア人の観照への性向は、社会構造の面からは、家事・育児から生産労働に至る日々の雑事を家内奴隷にゆだねることによって可能となったわけであり、奴隷制廃止後の、生産活動を(原則)「自由」な工場労働者が行う現代の社会は古代ギリシアとは前提を異にする。しかし、それは近代人が価値体系(知識体系・思想体系)を快適価値へ、知を技術知へ、それぞれ還元することを正当化するものではない。

このような「批判的思考」は、「理系の知」に対してはそれ「が働く人間的・社会的文脈についての理解」を深める。現代の科学・技術文明は一夜にして成り立ったものでないのは言うまでもないことだが、その歴史的成立過程をたどることなしには、「なぜ」「この」知識体系・思想体系をわれわれが望むのか、そしてわれわれは特定の技術(たとえば生殖医療技術、原子力、等)の使用を「どの程度まで」「なぜ」必要とするのか、明らかにはならないであろう。そしてこの問題を考える場合に、特定の技術の仕組みとリスクを含む「科学・技術リテラシー」が不可欠であるのは言うまでもないことである。

ところで声明文には、今確認したような「知の継承・発展」および「批判的思考力の育成」という意味における、既存のニーズとは異なる意味での「社会的要請」に関連して、次のような自己批判的な内容の文章がある。

6.一方、人文・社会科学に従事する大学教員は、変化が著しい現代社会の中で人文・社会科学系の学部がどのような人材を養成しようとしているのか、学術全体に対して人文・社会科学分野の学問がどのような役割を果たしうるのかについて、これまで社会に対して十分に説明してこなかったという面があることも否定できない。人文・社会科学に従事する大学教員には、社会の変化と要請を踏まえつつ、自らの内部における対話、自然科学者との対話、社会の各方面との対話を通じて、これらの点についての考究を深め、それを教育と研究の質的な向上に反映するための一層の努力が求められる。

一見したところ、もっともな指摘ではあるが、同時に、ここで求められている「対話」こそが、人文・社会科学の本来の任務ではないのだろうか。象牙の塔にこもっていては、そもそも人間も社会もわからない。だが、「書を捨て、街に出る」ことだけが「対話」を可能にするのではない。古典語で書かれた文献をひたすら読みふけるというのもまた、実は過去の知識人との「対話」である。研究が「対話」でなくなる可能性が高い・したがって本来の意味で「象牙の塔」にこもりがちとなるのはむしろ、実験器具や原子核、そして(観察と操作の対象と化した)「生体」や「細胞」「DNA」を相手とする「医歯薬理工系」の諸分野の方ではないのだろうか。少なくとも、文献読みが実験屋に比べて社会への説明責任を果たしていないかのようなここでの自己批判的言明には、おおいに疑問の余地がある。人文・社会科学が社会の直接的ニーズとは異なる、長期的視野からの別の「社会的要請」に応えているのだとする前段(「2」)の主張とうまくかみ合わないからである。

実は、声明文の触れていない、もう一つの重要な「社会的要請」がある。それは「教育の機会均等」である。国立大学が文科大臣の通知をそのまま実行したならば、地方の高校生は歴史、思想、文学等を地元の大学で学ぶ機会を大幅に狭められざるをえない。財政上の理由から、国立大学は医歯薬理工系諸学部を増強しつつ、他の諸学部は廃止または縮小のうえ、「国際」「文理融合」等をキーワードとする新学部に転換することを余儀なくされるからだ。

新学部においても歴史、思想、文学を学べないわけではもちろんない。だがここで注意しなければならないのは、およそいかなる分野であれ、「学部」を称してアカデミックな教育を行おうとする以上、その裏づけとして既存の「学会」の存在を前提とし、教員はそこに属して(物理学者は物理学会に、経済学者は経済学会に、歴史学者は歴史学会に、それぞれ属して)研究活動を行っている、ということである。ところが、新学部に名称のうえで直接対応する学会はほとんどの場合存在しない。新たに作ればよいのかもしれないが、いかんせん、新学部自体「社会的要請」に即して大急ぎで作ったものが大半で、その実態は別々の学会に属している別々の専門家の寄せ集めであり、カリキュラムの系統性と体系性もなにやら曖昧模糊としているであろうし、何より既存学部のもつ教育・研究の実績がない。「学際性」を謳いながらなんでもかんでもつまみ食いしてばかり、というような「学部」で、果たしてどのような「専門的」知見を身につけた「人材」を育成しようとしているのか、怪しいものである。

学際性を謳う新学部の存在自体に反対するわけではない。文理融合により「科学・技術リテラシー」または「理系の知が働く人間的・社会的文脈についての理解」を十分に備えた人材を育成すること、およびそれらの人材が単に就職に強い・付加価値を生み出すだけにとどまらず、新学部の教員とともに、新たな「学問」分野を創出することを期待してもよいのかもしれない。だが、「総合科学部」を初めとする学際型新学部設置の試みは、「一般教養部」の解体とともに始まったここ30年以上の流れではあるが、しかしそれは「総合科学学会」といったような新学会とともに新たなアカデミックな新分野を作り出す動きには至っていない。「社会思想史学会」「生命倫理学会」「科学技術社会学会」等は学際系が学会となった稀有な例外であろうが、これもまた「経済学会」「哲学会」「社会学会」「物理学会」「医学会」といった既存学会を母体とし、それぞれ異なる専門分野を有するメンバーらの「対話」の場として理解するのが妥当であるし、何よりこれらの学会自体、「学部」をもつには至っていないし、これからもそうはならないであろう。

実は文科大臣の通知に何より欠けているのはこの「学部」と「学会」の微妙な関係についての配慮である。既存の諸「学部」が、いかに「役に立たない」「雇用につながらない」という意味で社会的評判が悪くても、それなりに存続してきた理由は、実はそれらが「学会」活動を背景としてこれまで蓄積された「知」を継承・発展させることを使命としてきたからである。知の継承・発展。これは、「社会的要請」に還元できるような類の使命ではない。「グローバルな競争力」「付加価値創出」「雇用創出」といった産業界ニーズを理由に、既存学部の「廃止」「転換」を要求し、これを大学が実行するなら、そのとき大学は知の継承・発展という使命の一部を放棄することになる。

新学部が新たな「社会的要請」に応える「人材」を育成するのはもちろんいいことだ。そこから新たな学問分野が生まれてくればなおよい。だが、その際には当然ながら、既存学部の強力な支持が必要となる。というより、既存学部のもつ知見の裏づけを欠いた新学部の成果は、ことごとく似非科学となろう。だが既存学部をきわめて無造作に名指しして「廃止」「転換」を要求する今回の通知は、この点への配慮をまったく欠いている。

日本学術会議の声明文は、今回の文科大臣通知の意を十分すぎるほど汲む形で、なんとか「人文・社会科学も社会的要請に適っていますよ」と言おうとして、批判的思考力の育成と一体をなす知の継承・発展を、「社会的要請」に押し込めてしまった。これは同会議の重大な誤りである。その誤りは、過去の知識人との「対話」を人文・社会科学が十分に行っており、その知の継承・発展をもって十分に社会的説明責任を果たしえているはずであるのに、「人材育成」の点で説明不足であったなどと反省してみせている点に端的に現われている。

だが、違うのだ。人間と社会を歴史的・批判的に考察する学問は、そもそも「人材」を育成することを目指してはいないのだ。人類が蓄積してきた「知」の体系に謙虚になり、これを継承し、わずかでも新たな知見を加える。これだけがこの学問分野の目的である。人類の知の体系はきわめて膨大だ。だからこそ、人文・社会・自然諸科学に分けて分業体制を築き、系統的な教育を経て、専門的知見を深めていくことが必要となるのだ。そこに「人材」なるものは存在しない。ただ、「学問する態度」のみがある。この「学問する態度」が間接的に「社会的要請」に適う「よりよい人材」を生み出すことにつながることはあるだろう。だが大学が世間の顔色をうかがい、多数決かなにかで「役に立たない」分野を廃止するようにでもなれば、そのとき、わが国に「大学」は存在しないことになるだろう。

大学への「社会的要請」とは何か。そこに「批判的思考に基づく知の継承・発展」を入れ込むべきではない。その使命を付加価値とか雇用創出といった社会的ニーズと同レベルで考えるのは、人類の知的営み全体に対する冒涜である。もちろん、人口減少社会・学生数の減少し続ける時代にあって、付加価値創出・雇用創出は「社会的要請」として大学が応えるべき課題ではあろう。だが同時に、大学は知の継承・発展という「社会的要請とは異なる」使命を帯びている。この使命を果たすための系統立てられた作業に、学部と学会の十分な体系的裏づけをもつ体制のもとで、全国津々浦々の一定数の若者に一定期間、従事させる。そして、第一の「社会的要請」(付加価値創出・雇用創出)に適う「人材」を育成するためだけではなく、それ以前にまず、知の継承・発展という尊い使命に従事させるための「均等な機会」を与える。この「教育の機会均等」こそが、第二の「社会的要請」であると考えなければならない。

今回の文科大臣通知は、①「人文・社会科学」をきわめて乱暴にひと括りにしたうえで「社会的要請」に適っていないと断じている点、②狭義の「社会的要請」にのみ着目して「教育の機会均等」というもう一つの「社会的要請」に目を向けない点、③知の系統的な継承・発展のために必要な、学部と学会の体系的連関に配慮しないまま、無造作に特定学部の「廃止」「転換」を要求している点、以上3点において、「学問破壊宣言」以外の何物でもない。日本学術会議がこの点において政府与党に対する追及の手を緩め、安易に妥協しているようでは、わが国の学問の将来は危ういと言わざるをえない。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

大学への「社会的要請」とは何か―日本学術会議「声明」の批判的考察 への2件のフィードバック

  1. ピンバック: Avery Morrow's Internet Fancy » Is Japan abolishing social sciences and humanities departments?

  2. ryo2015 より:

    はじめまして。大変勉強になりました。難しい表現ではつづれないのですが、自分は、”文学、歴史、哲学”などといった、学生時代の自分も受講したようないわゆる『教養課程』にあるような基本科目の指導教育が、人としての考える力を育てるものだと思います。

コメントを残す